坂本龍馬の生まれた土佐藩とは現在の高知県にあたり、前面には黒潮の流れる太平洋、
背面にそびえるのは豊かな山々と、温暖多雨で自然に恵まれた気候風土という
印象がある。
しかし、かつての土佐藩は都から海を隔てて遠く、奈良・平安時代より都を
追われた貴族や政治犯などが流された流刑地であった。
■坂本龍馬の生まれた土佐藩・高知県
戦国時代末期、土佐藩の領域を治めていたのは長宗我部氏である。
最盛期には四国全土を支配するほどの勢力を持ちながら、1585年(天正13年)
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の四国征伐により、
長宗我部氏は四国統一の栄華から一転して土佐一国を領する大名へと没落した。
これ以降、長宗我部氏の衰退は留まらず、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて
長宗我部氏は豊臣方の西軍に与したため、西軍の敗北にともない領土を没収され
改易となった。
続く、1615年(慶長19年)大阪冬の陣・夏の陣では敗北した豊臣方へついたため、
当時の長宗我部氏当主であった長宗我部盛親とその6人の子供たちは斬首され、
ついに長宗我部氏の直系は途絶えることとなった。
長宗我部氏と代わり土佐藩を治めることになったのは、
関ヶ原の戦いにおいて徳川方の東軍について功績をおさめた山内一豊であった。
しかし、土佐には一領具足(半農半兵)と呼ばれた長宗我部氏の遺臣が存在しており、
当然ながら新しい藩主である山内一豊は歓迎されず、遺臣による反乱を繰り返す
ことになる。
山内一豊は長宗我部氏の遺臣による反乱を、武断措置により鎮圧し、
新たな武士の身分制度を敷き、自らの家臣を「上士」長宗我部氏の遺臣を「下士」
として差別した。
これにより元から土佐にいた武士は「下士」として虐げられることになった。
「上士」と「下士」では徹底した差別制度が敷かれ、身分の高い「上士」に対して
「下士」は職だけではなく着るものや住まいも制限され、挙句には「上士」に対し
無礼があれば切り捨てられるということまであった。
<上士と下士の差ってどれくらい!?>
・ 上士は下駄(雨の日は高下駄)→下士は草履(雨でも晴れでも下駄・足袋は禁止)
・ 上士は絹の着物→下士は綿の着物(絹の着物は禁止)
・ 下士は上士に対して頭を下げて道を譲る
・ 上士は下士に対して「切り捨て御免」
・ 上士は城郭に居住をかまえる→下士は城郭外に住まなければいけない
・ 上士と下士は結婚してはいけない
その他にも多くの下士に対しての不条理な制度であった
同じ土佐藩の武士でありながら、華やかな「上士」の理不尽な仕打ちに耐え、
「下士」は足袋すら自由に履くことが許されず、不満を募らせていった。
そしてこの不満は徳川幕府の長い歴史とともに変革を待ち望みながら
大きく膨れあがることになるのであった…。
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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
名将・知将というよりも現場叩き上げの一豊が新領主として土佐に乗り込み、
長宗我部氏の旧家臣団を抑えるのに弾圧政策を採ったのは当然かもしれない。
武断政治とそれが招いた対立は江戸260余年を通して続き、その間鬱々と
蓄えられ続けたエネルギーは幕末に至って一気に噴出する。
小山評定で徳川家康に天下を取らせた山内家は、図らずもその天下の終焉を
招く一翼を担うことにもなったわけである。歴史的な場に居合わせたのに
藩祖以下一族は歴史の中で影が薄く、土佐藩出身の志士で今も慕われる人々が
皆郷士なのも何とも皮肉な話である。