「坂本龍馬は諸国の様子を探っていた」
脱藩とは藩士が許しを得ず領外へ出ることで、一種の密出国である。
時には討手が放たれたりすることもあったくらい、武士にとっては
覚悟のいることであった。
文久元年(1861年)10月、坂本龍馬は讃岐丸亀城下での剣術
修行を理由に土佐を出国する。この出国については武市瑞山の「ある
依頼」も引き受けており、途中で修行期間の延長などを願い出て長州
の萩や大阪の住吉を回って翌文久2年2月29日土佐に帰国した。
「坂本龍馬と久坂玄瑞」
瑞山の依頼とは長州の久坂玄瑞(くさか げんずい)に書簡を届ける
ことだった。久坂玄瑞は吉田松陰の門下であり、「在野の有志よ
立ち上がれ」という松蔭の草莽崛起(そうもうけっき)思想を受け
継いだ人物である。
吉田松陰が「安政の大獄」で安政6年(1859年)に死罪に
なってからは長州の尊攘運動の先頭に立つようになった。
■坂本龍馬と同じ佐久間象山門下にいた吉田松陰
久坂玄瑞はこの時「諸藩大名家も公家も当てにならず、在野の志士が
結束してこの時勢に当たらねばならない」「志ある人物が立ち上がり
国家のために働く」という思想を話したであろう。
■坂本龍馬が長州に尋ねた久坂玄瑞
武市瑞山にもそういった思想を記した書簡を書き、坂本龍馬に託して
いる。その中で「尊皇攘夷の大義の為であれば尊藩(土佐藩)と弊藩
(長州藩)が滅んでも構わないではないか」と言っている。
「坂本龍馬、いよいよ脱藩へ」
久坂玄瑞との出会いがどんな影響を与えたのかは不明だが、坂本龍馬
は帰国の1ヵ月後、3月24日に脱藩する。これを知った武市瑞山は
「土佐にはあだたぬ(おさまらない)奴じゃ」と言って門出を祝った
と伝わる。
この時出奔の気配を感じ取った兄・坂本権平は刀を隠したり、才谷屋
に手を回して手を貸さないようにしたりと、何かと妨害工作を行った。
だが坂本龍馬は親戚に当たる弘光左門から路銀を借り、乙女姉さんから
受け取った刀を携えて、夜も明けきらぬうちに旅立ったのである。
ともに脱藩する沢村惣之丞とともに山道の難路をひたすら歩き、翌日の
夜には伊予国との国境に達した。ここから一路、長州領の下関を目指し
先を急ぎ4月1日に到着している。そこからは沢村惣之丞と別行動を
とる。惣之丞は京都で公卿の河鰭公述(かわばた きんあきら)に仕え
ながら朝廷の情勢を探り、坂本龍馬は九州各地の状況を調査するために
九州諸国を経巡る旅へ向かった。
「坂本龍馬、再び江戸へ上る」
目指したのは薩摩だった。
河田小龍から薩摩藩が藩内に洋式反射炉を
建造し、近代兵器を作っていることを聞かされていたのだろう。
■坂本龍馬が見たかった薩摩藩・反射炉跡
だが薩摩藩は「薩摩飛脚」という言葉を生むほどに厳しい出入国管理
体制をとっていた。そのため入国を果たせなかった坂本龍馬は方向を
転じて江戸を目指す。そこには後に大きな影響を受ける出会いが待って
いたのである。
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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
幕末という時代もあっただろうが坂本龍馬がこうも軽々と国境
(くにざかい)を越えて脱藩したのは、大きな構想が浮かんで
いたからだろう。尊皇攘夷の志士は全国で活動を開始していたが、
そういった志士たちの中には現代風に言うならば過激派と呼ぶべき
人間たちも多く、藩やイデオロギーに囚われて大局を見失う者も
多かった。更に薩摩や長州の様に江戸幕府との覇権争いを企む藩も
あって、幕府という重石が揺らいで一気に噴出してきた様々な思惑
のために情勢は混乱を極めていた。だが坂本龍馬は普通の志士達と
異なる志を持って幕末の嵐の中を動いていたのだ。