「坂本龍馬、苦心の江戸到着」
坂本龍馬は入国できなかった薩摩からまずは京都に向かった。
京都で親交の深かった望月清平に会うと、自分が脱藩した直後に
起きた
「吉田東洋暗殺事件」の犯人とされていることを教えられ
身を隠すように勧めらる。この望月清平は土佐藩士で、弟の望月
亀弥太とともに
土佐勤王党に参加していた。
この勧めに従った坂本龍馬は京都を離れて江戸に向かったのだが、
途中で路銀が尽きてしまい刀の柄頭を売って旅費を工面した。
柄頭は刀の柄を押さえている金具で、刀装具のひとつである。
これを売ってしまったために柄を手ぬぐいで巻いて江戸まで旅を
したという。こうしてやっとたどり着いた江戸では、剣術修行で
世話になった千葉定吉の道場に寄宿するのである。
「坂本龍馬を動かす出会い」
到着後は江戸住まいであった土佐勤王党の幹部・間崎哲馬や門田
為之助と情報交換などを行っていたようである。そんな中どんな
伝手があったのか、坂本龍馬は松平春嶽に拝謁することなった。
春嶽は第8代将軍吉宗の次男を祖とする田安徳川家の3代目で、
越前福井藩主である。黒船騒動の直後に没した将軍・徳川家慶は
従兄弟に当たる。
■坂本龍馬が拝謁した松平春嶽(まつだいら しゅんがく)
一介の脱藩浪士に過ぎない坂本龍馬がなぜ松平春嶽のような幕府
高官に会うことができたのであろうか。間崎哲馬の人脈という説
、鳥取藩江戸屋敷で剣術指南をしていた千葉重太郎の紹介という
説など様々言われているがはっきりしない。ともかく、春嶽の前
に出た坂本龍馬は大阪近郊の海防策などを語ったという。
春嶽はこれに感ずるところがあったのだろう、坂本龍馬に対して
自分の政治顧問である横井小楠と幕府軍艦奉行並・勝海舟に会う
ことを勧め、紹介状を書いて渡した。
「大きく飛躍する坂本龍馬の構想」
横井小楠は肥後熊本藩の生まれで、政治顧問として春嶽に招かれた
人物である。春嶽を補佐して福井藩の藩政改革を成し遂げて、藩の
財政建て直しに成功し、さらに幕府の政事総裁職でもあった春嶽の
助言者という立場で幕政改革にも関わった。その小楠は坂本龍馬に
会うと「諸外国との不平等条約を破棄して積極的に開国することが
国力増強につながる。もし破棄出来ない時は一戦することも辞さず
という覚悟が必要だ」と説いた。この時の面談の内容は、同席した
三岡八郎(由利公正)によって正確に記録されている。
そしていよいよ坂本龍馬は勝海舟と出会うことになる。
万延元年(1860年)に咸臨丸に乗り遣米使節の一員として米国
に渡った経験も持っている海舟は、千葉重太郎とともに尋ねてきた
坂本龍馬を赤坂氷川の屋敷に迎えている。この時、坂本龍馬と千葉
重太郎は海舟を斬りに行ったと言われ、海舟自身も後に「坂本龍馬。
あれは、俺を殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時俺は笑って
受けたが、落ち着いていて、何となく冒しがたい威厳があって、良い
男だったよ」と回想している。
■坂本龍馬と出会う勝海舟
しかし逆に海舟自身の回想以外に証拠がなく、海舟得意の大法螺で
あった可能性も高い。この話しの真贋はともかく、海舟との出会い
が坂本龍馬の活動を加速していくことになるのである。
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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
勝海舟は山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末三舟といわれた人物で、
毀誉褒貶の激しい人である。「拙者を殺しに参ったな、隠しても駄目だ
足下に殺気が見える」と言って、隙あらば斬ろうとしていた坂本龍馬を
動けなくしたとも言う。実は海舟は直心影流の達人であり、剣の腕は
相当なものだった。しかし松平春嶽ほどの人が斬るつもりでいる人間に
紹介状を書くだろうか、という疑問も残る。このエピソードは、
どうも海舟の洒落っ気ではなかったかと思う。