「坂本龍馬が向かった薩摩藩は攘夷が不可能ということを知っていた」
坂本龍馬が西郷隆盛に保護される少し前、薩摩藩はイギリス艦隊と
鹿児島湾を舞台に砲撃戦を行った。薩英戦争として知られるこの紛争は
双方かなりの被害を出して二日ほどで収束した。そしてこの後、薩摩藩は
イギリスと急速に接近するのである。イギリスは薩摩藩の軍事力を評価し
当時同じように日本へ進出を図っていたフランスへの対抗という意味から
薩摩藩との関係を強めることになったのである。一方薩摩藩側は現状では
攘夷など夢物語でしかないことを身をもって知った。それゆえ最新技術の
導入のためもあり、イギリスと関係を結んだのであろう。
■薩英戦争
「坂本龍馬と薩摩藩の思惑」
この事件があって後、薩摩藩の内部では海軍力の整備が求められるように
なった。西郷隆盛が勝海舟の依頼を受け海舟塾の塾生を保護し薩摩藩に
送ったのはそういった背景があったと思われる。塾生に付き添い大阪から
薩摩へ薩摩藩蒸気船・胡蝶丸に同乗したのが大阪で坂本龍馬と昵懇になって
いた薩摩藩家老・小松帯刀であった。この小松帯刀の書状にも
「航海の手先に召し仕り候」とある。坂本龍馬以下、海舟塾の面々が
身に着けた航海術や操船手法を薩摩藩へ移植しようという目的もあった
はずである。
■薩摩藩家老・小松帯刀
「坂本龍馬、夢への第一歩を踏み出す」
薩摩に着いた坂本龍馬は早い動きで行動を開始する。小松帯刀、西郷隆盛らの
援助を受け塾生を長崎に送り出したのである。長崎は日本では数少ない、広く
開かれた港湾であり、またそこにあった長崎海軍伝習所は師の勝海舟が航海術を
学んだ場所でもあった。そんな、外国船が行き来し貿易も盛んな長崎で坂本龍馬
達によって設立されたのが、貿易商社と私設海軍を兼ねた日本初の株式会社とも
言われる「亀山社中」であった。
■長崎海軍伝習所
「坂本龍馬はもう一つ目的を持っていた」
実際にはこの時、坂本龍馬は長崎に行っていない。もう一つ別の大きな目的が
あったためである。代わりに一行をまとめ、亀山社中を率いていたのは坂本龍馬と
同郷の近藤長次郎である。元々、高知城下の饅頭屋の息子として生まれた長次郎は
名字がなく、それゆえに「饅頭屋長次郎」と呼ばれていた。幼少の頃から聡明で
山内容堂からもその才を認められ、名字帯刀を許されて神戸海軍操練所に入った。
坂本龍馬とも仲がよかった人物である。しかし設立間もない亀山社中には操るべき
船もなく、活動を本格化させるにはまだ時間が必要だった。
■近藤長次郎
薩摩藩の援助も潤沢ではなかった亀山社中を助けたのが、
松平春嶽の福井藩で
御用商人を務めていた小曾根乾堂であった。小曾根乾堂は勝海舟も知っており
弟の英四郎ともども協力を惜しまなかった。活動拠点を提供されたりといった
助力を得て、少しずつ亀山社中は活動を前進させる。そしてこの活動が、やがて
大きな歴史の転換点を作り出すことにつながっていくのである。
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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬の亀山社中設立は
河田小龍との対面で得た着想が元になっていることは
間違いなかろうと思う。貿易をし国力を高め、自由に海を渡る海軍力を得るという
坂本龍馬の夢は、ここにその第一歩を踏み出したのだ。これを足がかりに更なる
飛躍を目指すのである。