「坂本龍馬、勝海舟の門下に入る」
赤坂氷川に勝海舟を尋ねた坂本龍馬は、海舟の佐幕・勤皇を
飛び越えた話しに心を動かされてその場で弟子入りを志願した。
海舟は自らアメリカを見てきており、日本と諸外国との国力や
技術力、政治制度などの差を実感していた。それゆえに幕府の
高官でありながら、佐幕というイデオロギーに拘泥せず大局に
立った物の考え方が出来たのであろう。
おそらく海舟は江戸っ子のべらんめえ口調で坂本龍馬に考えを
語ったに違いない。日本が今後相手にして行く国々の実力を考え
同時に日本の現状を振り返ってみれば、勤皇だ佐幕だと国内で
了見の狭い争いをしている時ではない。日本を植民地にしようと
諸外国が迫ってくる中、日本は貿易を行い国力をつけ海軍力を
整備しなければならない、と。
「坂本龍馬の構想は徐々に形をとっていく」
海舟の意見は、
河田小龍と意見を交えた坂本龍馬に小龍が語った
自説と符合するものでもあり坂本龍馬の構想していたことでも
あっただろう。その上、自分の知らない太平洋を越えた世界を
見てきた海舟の門下に入ることに、坂本龍馬は何の躊躇いも
無かったに違いない。
土佐勤王党に参加し先鋭的な尊皇攘夷の志士とも交流のあった
坂本龍馬であったが、そういったしがらみに囚われる事もなく
本来の目的を見据えて大きく動くことが出来たのが坂本龍馬の
一番の強みであった。だからこそ倒幕・佐幕とは一線を画した
ダイナミックな構想を立て次々に実現して行ったのであろう。
「坂本龍馬、奔走する」
海舟は天皇のいる京都を守ることを考えた。そのために大阪から
神戸にかけての沿岸を守ることを幕府と朝廷に進言している。
実際に14代将軍・徳川家茂と公卿・姉小路公知を船に乗せて、
大阪湾を視察した。徳川家茂の正室は孝明天皇の妹・和宮である
ことも関係していただろう。海舟はその船上で、神戸は天然の
良港であり日本の中枢港湾として整備するべきであると提案した。
そして、その頃はまだ小さな港町であった神戸に幕府によって
海軍操練所が開設された。これは海軍士官養成と軍艦の造船を
目的とした施設である。幕府から17000坪の土地が与えられ
年間3000両の予算が出た。海舟の海軍構想はこうして現実の
ものとなっていく。その海舟の元で坂本龍馬はもう一つの計画の
ために奔走していたのである。
■神戸海軍操練所跡の碑
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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
もしかすると、このときの坂本龍馬の頭の中にはもう土佐藩や
そこでの身分制度、上士と郷士などは消えかかっていたのかも
知れない。そんなことが気にならないほど、スケールの大きな
世界を頭に描いて行動していたのだろう。海舟が与えた影響は
よほど大きかったのだ。