竜馬の人生・第七回について 坂本龍馬のことなら龍悠会

 

坂本龍馬の人生を辿る

龍馬と日米和親条約締結

開国するか否か、返答までに1年の猶予を幕府に与えて黒船は日本を去った。
嘉永6年6月12日であった。琉球王国に残留していたペリー艦隊の残りの船団と
合流し香港に戻ったのである。このわずか10日後、時の将軍・徳川家慶は世を去る。
後を継いだ13代将軍家定は病弱で、国家・幕府の危急存亡のときに頼りになる存在
ではなく、老中首座・阿部正弘はやむを得ずかつて無い処置をとった。
ペリー横浜上陸
■坂本龍馬とペリー横浜上陸

譜代、外様を問わず諸大名や旗本に広く意見を求め、人材の登用を行ったのである。
これは一方では幕府の弱体化を世に知らしめる事にもなったが、様々な人物が世に
出るきっかけにもなったことは間違いない。
ペリー再来の際は必ず戦争になると信じる人々も多く、その影響もあって坂本龍馬は
ペリー来航から半年ほど経った12月1日に佐久間象山の下に入門し砲術を学んだのであろう。
そして坂本龍馬が象山の塾に入門して一ヵ月半ほど過ぎた頃、年号が安政と変わった
1月16日に黒船は再びその姿を江戸湾に現した。約束より半年も早い来航で、
幕府側は大慌てであった。香港で将軍の死を聞いたペリーの決断である。
アメリカ東インド艦隊蒸気外輪フリゲート艦USSミシシッピ
■坂本龍馬とアメリカ東インド艦隊

のらりくらりとやり過ごそうとした幕府であったがペリーには通用せず、
結局1ヶ月の交渉ののち日米和親条約を締結することになった。
ここに徳川幕府が200年保ってきた鎖国政策が終わりを告げた。
合衆国水師提督口上書(嘉永6年6月8日)
■衆国水師提督口上書:その時坂本龍馬は・・・

この間、佐久間象山の下で坂本龍馬とともに学んだ中には吉田松陰、勝海舟、
橋本佐内などといった人物がいる。その吉田松陰が、伊豆・下田に移動していた
黒船に密航しようとして発見され捕らえられるという事件が起こる。
師匠として佐久間象山は国許蟄居となり、坂本龍馬が西洋砲術を学ぶのも4ヶ月ほど
で終わりとなった。

この黒船騒動を間近に見聞きし列強各国との圧倒的な国力の差を見せ付けられた
坂本龍馬は、それ以前とは全く違った視点から日本を見る眼を与えられたのではないだ
ろうか。土佐の身分差別や幕藩体制、将軍や徳川旗本の権威など動くはずが無い、
動かせるものでは無いと思っていたものが、実はそれほど磐石なものではないかも
知れないと感じたのではないか。
そしてその思いを胸に坂本龍馬は自分の行く道を見据えるようになったのだろう。
安政元年6月23日、一年の滞在期限を迎え坂本龍馬は土佐に帰ることになった。

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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬大好きご隠居の一言
坂本龍馬にとっての黒船は、世の中を揺るがす以上に江戸時代の価値観を根底から
覆す大きな存在だったのだろう。
生まれで全てが決まり、そこから動くことも抜け出すことも出来ない身分制度の中で、
土佐藩郷士の坂本龍馬はその息苦しさや不自由さの大元が絶対なものではないかも
知れないという可能性に気がついた。
時代が大きく動く中で、坂本龍馬はそれを現実にするために東奔西走したのだ。


坂本龍馬 家系図