嘉永6年6月3日、龍馬が江戸について2ヶ月ほど経った頃
相模国浦賀沖に当時の日本人が見たことも無い異形の船が姿を現した。
マシュー・カルブレイス・ペリーを司令官とするアメリカ東インド艦隊の
巡洋艦だった。世に言う黒船来航である。
■坂本龍馬と黒船
米大統領フィルモア(艦隊出航当時)はタカ派であり、東アジア地域での
植民地確保(列強各国との覇権争い・捕鯨基地としての寄港地の獲得)という
問題に関して武力行使も辞さないという方針であったため、黒船艦隊の行動も
必然的に威圧的なものになった。
江戸湾内に侵入し砲撃(空砲)を繰り返し、また許しを得ずに測量を始めた。
開国を求めた大統領親書を渡すときも、身分の高い幕府役人を派遣しなければ
江戸湾を上がって武装上陸し、将軍に直接手渡すと脅しを掛けた。
実は幕府は前年に長崎奉行を通じてオランダからアメリカ艦隊の日本来航と
その目的を知らされていた。しかし12代将軍の徳川家慶はその死を目前に
しており、国の大事に対処できる状態ではなかった。幕府の対応も後手に回る中
老中首座・阿部正弘はやむを得ず親書を受け取ることとしたのである。
■坂本龍馬の時代の老中・阿部正弘
しかし返事を一年待って欲しいと返答し、ペリーは一年後の来訪を告げ日本を去った。
この幕末期の開始を告げる大事件が勃発したとき、江戸に滞在していた坂本龍馬は幕府の
召集を受けて品川沿岸の警備の任に当たっていたようである。土佐藩下屋敷に待機
して訓練と実地の警備に日を送っていた。9月13日に父・直足に送った手紙に
「異国船御手宛の儀 まず免ぜられ候」とあり、3ヶ月ほど沿岸警備に当たっていたことが分かる。
この黒船来航と前後して日本近海には列強各国に艦船がしきりに姿を現すようになっていた。
そのせいか当時の龍馬の手紙には「異国船 処々に来り候由に候へば 軍(いくさ)も
近き内と存じ奉り候 その節は異国の首を打取り帰国仕るべく候」という一節が見える。
このときの坂本龍馬は攘夷論に闘志を燃やす青年だった。
幕府はペリーが去るとすぐに江戸湾の防備を固めるため、品川台場を計画した。
■坂本龍馬とペリーの来航
当時国内で最初の洋式反射炉建造し優れた鋳造技術を持っていた佐賀鍋島藩に
海防用の洋式大砲を大量に発注する。その動きに連動し土佐藩では鮫洲抱屋敷内に
砲台建設を計画、その大砲を操作する人員育成にも着手した。
藩からは上士身分の若者が呼び寄せられ、佐久間象山の下で高島秋帆の洋式砲術を
学ぶことになった。その中に坂本龍馬も加わっている。嘉永6年12月1日のことである。
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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
兄が砲術の達人であったせいもあるだろうが、坂本龍馬も鉄砲や大砲の技術に関して
筋は良かったらしい。日本が開国に向かうことになる大事件「黒船来航」を
目の当たりにした経験は、後の坂本龍馬に大きな影響を与えたことは間違いない。
これを境にして坂本龍馬は幕末の世を縦横に駆け巡ることになるのだ。