竜馬の人生・第二十三回について 坂本龍馬のことなら龍悠会

 

坂本龍馬の人生を辿る

坂本龍馬が活躍する土台3


「坂本龍馬が活躍する土台~薩摩と長州の激突~」

列強各国との摩擦が尊皇攘夷過激派を否応なく
煽っていった。天皇に対して更に過激な攘夷実行の
勅命を出させようと献策を計画し、次第に自らの
意思とは無関係に、政治的に利用される立場に立った
孝明天皇は、尊皇攘夷派に不快感を持つようになった。

そこで京都守護職として文久二年に着任した松平容保
率いる会津勢と、市中警備の件で信頼を置いていた
島津久光の薩摩勢という公武合体派の武力をもって
京都から過激な尊皇攘夷派を追放する事が画策され、
文久三年八月十八日に実行された。

これは八月十八日の政変と呼ばれ、京都御所を会津、
薩摩の藩兵が囲み尊皇攘夷派を遠ざけた中で長州藩
藩主の毛利敬親・定広親子や尊皇攘夷派の公家を処罰
することを決定してしまった。

これを境に長州は京都から追われ、京都の政界を掌握
してきた尊皇攘夷派も武家・公家ともに追放となった。
この事件は坂本龍馬が神戸にいて海舟の海軍塾と神戸
海軍操練所のために奔走していた頃のことになる。
京都から去ったはずの長州藩だが密かに潜伏していた
尊皇攘夷派の面々が活動を続けていた。

長州では藩主親子は処罰されたため蟄居しており、
藩政への影響力を無くしていた。このため長州藩内部
では尊皇攘夷過激派の藩士が実権を握りつつあり、
その中から再度京に上って孝明天皇を自陣営に取り戻そう
という案が出た。

慎重派と積極派とが議論を重ねていたが、翌年の
元治元年六月に京都・池田屋で尊皇攘夷の志士が
新撰組に襲撃され捕縛・惨殺された池田屋事件が
伝わると、この案に積極的に賛成した久坂玄瑞等は
藩主の冤罪を晴らすためと称して兵を京都に進め、
京都御所に攻め込むという禁門の変を起こす。
久坂玄瑞と禁門の変
■久坂玄瑞と禁門の変■

狙いはもちろん孝明天皇の身柄であった。この動きは
薩摩藩等に事前に察知されており、御所は各藩兵が
守備を固めていた。御所守備の指揮官だった一橋慶喜
(後の15代将軍徳川慶喜)は長州勢を駆逐しようとする
強硬派を抑え宥和を図ろうとしたが、蛤御門の付近で
会津・桑名藩兵と長州勢が激突して戦闘の火蓋が切って
落とされた。
蛤御門
■蛤御門■

一時は御所の中立売門を突破し禁裏(御所内)に侵入した
長州勢だが、薩摩勢が援軍に駆けつけると形勢が逆転し
敗退した。この戦闘で久坂玄瑞は討ち死にした。長州勢は
京都の町に火を放って退却したが、それが原因で京の町は
大火に見舞われた。東本願寺や本能寺もこの時に一度焼失
している。

長州藩士はこの惨敗を深く悔い、薩摩藩に対して猛烈な
敵愾心を持ったという。つまり長州と薩摩はこの時には
徹底的に対立していたのである。そしてこの尊皇攘夷派の
騒動が元で海軍操練所は閉鎖され、勝海舟は江戸に戻され、
行き場をなくした坂本龍馬ら塾生は薩摩藩に保護された。

ここから亀山社中、海援隊と坂本龍馬の本領発揮の大活躍が
始まる。やがて維新回天の一大事業・薩長同盟を成立させる
に至るのだが、そのエピソードは次回以降にしたいと思う。

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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬大好きご隠居の一言
幕末の雄藩同士の関係は、対幕府という他にそれぞれが時代の
主導権を握ろうと画策していたことから権謀術数の渦巻くもの
であった。何しろ昨日の味方が今日は敵ということが現実にあった
時代なのである。そんな時代でも長州と薩摩が同盟を組むなど、
禁門の変やそれに続く長州征討を見ている限りとても考え得ない
ものであった。

坂本龍馬 家系図