竜馬の人生・第二回について 坂本龍馬のことなら龍悠会

 

坂本龍馬の人生を辿る

坂本龍馬の生まれた土佐藩の郷士とは?

土佐藩の武士の身分制度は、藩主を頂点に、上士の役職は
・ 家老(かろう)=藩主を助けて藩政を行う重臣
・ 中老(ちゅうろう)=家老の次位にあたる職
・ 物頭(ものがしら)=「弓組」や「鉄砲組」の長
・ 馬廻(うままわり)=主君・大将の乗った馬の周囲にあって警護をする騎馬武者
・ 小姓組(こしょうぐみ)=諸儀式に参与し、将軍の外出時の警護、市中の巡回など
に当たる
・ 留守居組(るすいぐみ)=幕府との公務の連絡や他藩の留守居役との交際・連絡
を担当

に分けられていた。

また、下士も様々に分部類されていた。その頂点が「郷士」である。次いで、
・ 用人(ようにん)=金銭の出納や雑事などの家政をつかさどった者
・ 徒士(かち)=騎乗を許されない下級の武士
・ 組外(くみほか)
・ 足軽(あしがる)=徒歩で従軍する兵士
・ 庄屋(しょうや)村落の長。年貢納入責任をもち、村の自治一般をつかさどった。

などによって構成されていた。
 郷士が“下士の中での頂点”と言えば聞こえはいいが、どんなに優れていても下士が上士に取り立てられることはなかった。

郷士の身分は、時代とともに一領具足だけに与えられる身分ではなくなっていく。
●新田開発などで功労のあった者。
●他国の者
も郷士として登用されたため、郷士の人数は爆発的に増えていった。

坂本龍馬の人生を辿る「郷士」とは
その一方で、貧窮や病気などでその身分を維持できない者も出てきた。
そのため、郷士の身分を金銭で売買するようになったのである。
● 買った側⇒譲受郷士
● 売った側⇒地下浪人(下士層よりさらに下のランク:岩崎弥太郎がそうであった)
坂本龍馬と岩崎弥太郎
■坂本龍馬と岩崎弥太郎
こうして売った側は、下士よりも階層を落とされその中で生きていくこととなった。

ちなみに、商人に郷士譲り受けの資格が与えられるようになったのは1763年
(宝暦13年。藩は「裕福で、犯罪歴のないこと」を条件に応募者を募り、その資格を得た者は「町人郷士」 と呼ばれた。
そう、この中に坂本龍馬の祖先である八郎兵衛直益(はちろべえなおます)がいたのである。
(※八郎兵衛直益は、坂本家の六代目)
●四代目:八郎兵衛守之⇒商人としての頭角をあらわし、酒屋をスタートさせる
●五代目:四代目の商才を引継ぎ反映させる
●六代目:八郎兵衛直益⇒土佐で3本の指に入るほどの豪商として最盛期を迎える

この屋号が「才谷屋」 である。
※ 直益の代では質屋、両替商も営んだ。
坂本龍馬と才谷屋
■坂本龍馬と才谷屋

この才谷屋の取引相手は上士階級の武士で、使用人も多く、羽振りもかなりよかったといわれている。
直益は、町人郷士の資格を得るとそれを長男に譲り、商売は次男に譲って隠居した。
その長男が、龍馬のひいおじいさん(曽祖父):八平直海だったのである。

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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬大好きご隠居の一言
身分制度は古くからあり、武士の身分制度も鎌倉期から戦国を経て
江戸時代のものとなった。江戸時代中期を過ぎると徐々に身分制度が
変容していく。後期になると貨幣経済の発達もあり、金銭を支払って
身分と役職を引き継ぐことが出来る「名目上の養子」としてもらい
町人から士分になる「御家人株」の売買まで行われるようになった。
しかしこれはあくまで末端のことであり、上級武士の身分は固定されたままで
幕藩制度を支え続けた身分体制は厳然と人々の上に圧し掛かっていたのである。

坂本龍馬 家系図