河田小龍の元を訪ね自分の進む道を悟った龍馬は、その年の十一月には
兄とともに土佐の仁井田浜で行われた徳弘孝蔵の砲術稽古に参加した。
年が明けて安政二年、龍馬にとって衝撃的な出来事があった。幼い頃から
可愛がってくれた父・八平が亡くなったのである。この時、龍馬は数日
泣き続け食事もとらなかったという。八平にとっては年をとってからの
子供であったこともあり、龍馬を相当可愛がったのであろう。龍馬に
とっても敬愛した父であった。
兄の坂本権平が跡を相続することを許され坂本家四代目当主となったのは
安政三年二月のことであった。その年の七月、龍馬は再び江戸で武術修行を
することを藩に願い出ている。そして翌年の九月まで江戸で修行することが
許された龍馬は八月二十日に土佐を出発して江戸に向かった。この半月ほど
前には、後に土佐勤王党を設立する武市半平太(瑞山)も江戸での剣術修行と
臨時御用という藩命を受けて江戸に向け出立している。
九月末に龍馬は無事江戸に着いた。築地の土佐藩中屋敷に入り、武市半平太、
大石弥太郎とともに江戸での日々を送ることになった。龍馬は再び千葉定吉の
「小千葉道場」で修行をし、一方で半平太はこの中屋敷から程近い桃井春蔵の
士学館に通って剣術修行に励んだのである。ちなみにこの士学館は千葉周作の
玄武館と並び江戸三大道場に数えられており、半平太は後に塾頭まで勤めている。
この頃、江戸幕府内は騒然としていた。前年から幕府の実権を握った
彦根藩主で大老の役についた井伊直弼が、勅許を得ずに日米修好通商条約を
締結し、また将軍継承問題を強引に解決して強権政治を行っていた。
この強権政治は「安政の大獄」を経て井伊直弼が桜田門外で水戸浪士に
襲撃される安政七年まで続く。
■坂本龍馬の時代の大老・井伊直弼
この井伊大老の強権政治に絡み、水戸の尊皇攘夷派浪士・住谷寅之介と
大胡聿蔵(だいご いつぞう)が諸藩の奮起をうながすため各地を回っていた。
やがて土佐にやってきた二人は坂本龍馬に連絡を取り土佐入国の手助けを求めた。
しかし土佐入国は叶わずそのまま去っていくのだが、この住谷が後に坂本龍馬の印象を
「誠実で愛すべき人物であり撃剣家であるが、迂闊にも世情を何も知らない」と
書いている。
こういった時勢の中で二度目の江戸滞在も終え、土佐に帰った坂本龍馬は学問に
励んだようである。水戸浪士の二人が訪ねてきた頃はその最中だった。
坂本龍馬の勉強は机に噛り付くようなものではなかったが、本を読みその本質を
的確につかんで理解を進めていた。何を考えていたのかは知る由も無いが、
様々な知識を吸収し、そして徐々に政治的な動きを見せていくことになるの
である。
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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
坂本龍馬はこの時期に蘭学も学んだ。その中で有名なエピソードがある。
あるとき先生の講義の内容がどうも腑に落ちなかった坂本龍馬は先生に
「もう一度、原書を確かめてくれ」と頼んだ。理屈が合わないと言う
のである。先生は「私が間違うはずが無い」と言ったが原書を改めて
みると坂本龍馬の言うとおりであった。本質を見抜いた坂本龍馬だからこそ
講義を鵜呑みにせず、論理が合わないことを悟ったのであろう。