「坂本龍馬の目に映った幕府」
坂本龍馬が海軍操練所と海舟塾のために八面六臂の活動を
していた頃、姉の乙女に送った手紙がある。その少し前に
起こった下関戦争での幕府の対応に憤慨する内容である。
下関戦争は攘夷に逸った長州藩が関門海峡を封鎖し、英仏
米蘭の4カ国と起こした武力衝突である。この時幕府は
長州藩の砲撃により破損した外国船を無償で修理していた。
■馬関戦争図
その艦船が再び長州へ向かい、最終的に長州は大打撃を受ける。
坂本龍馬はこの幕府の対応を憤ったのである。日本を外国に
売るが如くの対応に、あの有名な「日本を今一度せんたく
いたし申候事」の一節を書き記して
乙女に送った。
「坂本龍馬の後ろで起こる出来事」
坂本龍馬が幕府のだらしなさに怒り、また列強の艦隊に対して
対抗するすべを得ようと海舟の下で奔走している頃、京都を舞台に
大きな事件がいくつも起こった。「八月十八日の政変」それに続く
「池田屋事件」「禁門の変」といった時代の方向を大きく揺さぶる
出来事の数々である。この一連の事件を境に尊皇攘夷派の志士たちは
過激危険分子として幕閣や薩摩の島津久光、会津の松平容保などの
公武合体派から睨まれるようになった。
「坂本龍馬らは保守派から見れば過激派だった」
海舟塾はこういった事件に直接関わりがあったわけではないが、
脱藩者や幕府に批判的な者も広く受け入れていた事、池田屋事件では
塾生だった望月亀弥太が新撰組と斬り合い、自刃している事など
様々な点から幕府保守派の批判を受ける結果となった。その責を
問われる形で海舟は幕府保守派から幕府軍艦奉行を罷免され、
蟄居ということになってしまった。
「坂本龍馬、海軍操練所の閉鎖で行き場を失う」
同時に神戸海軍操練所も閉鎖されてしまう。結局、諸外国の
海軍力に対抗できる国力を育てようという勝海舟と坂本龍馬の
大きな願いは叶えられることなく、神戸での航海術修行は頓挫
することになってしまった。また危険分子として目をつけられた
塾生たちはこの後、人目を忍ぶ潜伏生活を余儀なくされてしまう。
この苦境を救ったのが、もう一人の幕末の大立者だったのである。
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■坂本龍馬びいきのご隠居のつぶやき■
幕府側は長年の鎖国のせいか、事なかれ主義の人物ばかりが
中心に座っていたようだ。危機に際して合理的に判断が出来ない
人物ではものの役に立たない。また情報を集めずに単なる感情や
思いつきで突っ走る人間も危険なものだ。このあたりを考えると
坂本龍馬のバランス感覚というのは絶妙だったのだと思える。